本田実さんの足跡を辿って(22)岡林滋樹 『戦下に散った同志』

 1913年生まれ。1939年~1941年新星、彗星、惑星の優れた観測者として倉敷天文台に勤務。1940年には【岡林・本田彗星】は岡林さんが倉敷天文台にて発見後、本田さんが福山市にて観測。この名がつきました(これが本田さん人生初の彗星発見となります)。しかも、その翌年に岡林さんが倉敷天文台を辞めたことで後任が本田さんに、という縁がある間柄でした。

 同じく彗星発見で有名な関勉さんのブログからちょっとした岡林さんエピソードを見つけました。1939年7月に火星が大接近の折に描かれた岡林さんの火星のスケッチと1924年に描かれた外国のスケッチが人工な模様が似ているとして『火星から謎の通信』としマスコミが取り上げたことがあったとか(^^)

 終戦前に亡くなった岡林さんと復員した本田さん。誕生日が5日違いで背負ってきた星は同じこの2人。もしも‥この季節になるとふと思ってしまいます。(続く)(山脇 京)

倉敷天文台32cmカルバー鏡と岡林氏(昭和15年)
『天文月報 1979年6月号』より

鳥取天文協会 Tottori Society of Astronomy

鳥取天文協会は鳥取近隣の天文愛好家で作るグループです 以下に引っ越しました https://toritenkyo.blogspot.com/

1コメント

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  • ako

    2024.04.15 09:57

    初めまして。突然のコメントを失礼致します。岡林滋樹は私の大叔父です。(ちなみに写真は他にもあります☺︎)阿波丸の犠牲者の遺族として知っていただきたいのは暗い海へと息ができないまま沈んでいく無念さ。待っている家族のこと。様々な感情を残して亡くなりました。帰国後は結婚も決まっておりました。ある素晴らしい美術館の娘様とです。 ところで私には腑に落ちない点があるのですが皆様はどう思われますか? 岡林本田彗星って何かおかしくありませんか?身内贔屓でお恥ずかしいのですが、大叔父が3日も彼より早く見つけたのになぜその名前なのか不思議で仕方ないのです。仲良しだった私の祖母の話によると上司による忖度があったそうです。だからこそ大叔父はすぐに倉敷展望台を辞めたのです。これは無念さを残して命を落とした大叔父様の代わりに知っていただけたらば幸いです。昔の上司のお考えなど今となれば分かりませんが色々とあったのでしょうね。でも勉強が大好きな大叔父様のために私は言いたい。あれは岡林彗星だと。 私が大好きだった祖母と大叔父は今頃はきっと空の上で穏やかに暮らしていると信じています。岡林滋樹の名誉にかけて失礼を申しまして本当に申し訳ないですが愛する家族のために勇気を出しました。